禅談〜迫力がある、重みがある!禅の名著 [4480435163] :
読書のすすめ    カートを見る      

禅談〜迫力がある、重みがある!禅の名著

907円

沢木興道著◆「ある本に下記のようなことが書かれている。→『「心々絶待仏々現前」ーーー心々絶待ということは自分、自己を発揮することである。何が運が悪いと言っても、何が可哀想と言っても、何が憐れむべき者と言っても、自己を冒涜する者以上のものはない。これを「人々絶待」としてもよい。よく人々は位の高い人をたくさん並べて誰が一番偉いだろうなどと言うが、そんなひがんだこと言わんでもよい。私はいつも「おれだ」と言う。「なんだ、あんな乞食袋をさげて・・・・・」と他人は言うかもしれないが、しかしおれは他人の鼻を借りて息をしておらん。おれはおれの鼻で息をしているんだ。自己を冒涜せず、自己を極度に発揮するのが成仏ということです。成仏というのは、おれがおれになるということである。それを反対に「あいつ成仏しよった」と言うのは泣き寝入りした者によく言う。「あいつ、もがきやがったが、とうとう往生しやがった」という。これは弱い奴である。少しも、もがかないのが成仏である。たいていの者はどこぞにうまい餌がないかと探し歩くが、一生福にあわずにグルグル舞いをしている。本当に自分の個々の足場をグッと踏みしめるのが幸福であり成仏である。つまり自己を発明することである。肥前佐賀の肥前論語、一名葉隠論語、鍋島論語の中に「釈迦も孔子も達磨も楠公も武田信玄も上杉謙信も鍋島の藩ではないから」と書いてある。釈迦も孔子も達磨も楠公もと、こう並べたところが痛快である。武田信玄も上杉謙信も鍋島の藩じゃない。そうすればドイツもフランスもイギリスもアメリカも、ムッソリーニもヒットラーも問題じゃない。そんなものはどうでもよい。そうして、しんみりと自己に親しみ最高最上の自己を冒涜しないで、外国人(薄っぺらい本を書いて先生ヅラになっている人)にかぶれてないで、本当の自己を見いだすということが、これが何より我々の幸福というものである。「心々絶待」である。そこで「仏々現前」する。絶対自己を冒涜しない、それがそのまま仏である。その身そのまま冒涜さえしなければ、目糞がついていたらいるまま、白粉がはげたらはげたまま、巾着が空っぽになったら空っぽのままで仏様ぞという、そこが「仏々現前」である。』『禅談』より―この本を書いたのは、ちょっと昔の坊さんだ。ハッキリしていて嘘くさくない。迫力がある!重みがある!こういう本にこそ価値があるのではないか?」清水店長ブログより―「人間は何度も何度もこの世に生まれてくることはできない。この大切な一生を、何の願も立てずに空しく過ごしてしまうということは、まことにもったいないことである」―「絶対のめでたさ」とは何か。「自己に親しむ」とはどういうことか。安直な自己肯定を戒めながらも、仏教を決して高尚なもの、多くの人の手の届かないところにあるものとはしない。時代を超えた迫力の説法!

カートに入れる:

  • モデル: 4480435163


読書普及協会