「世間」とは何か---日本社会の本質をえぐる歴史的名著 [4061492622] :
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「世間」とは何か---日本社会の本質をえぐる歴史的名著

864円

阿部謹也著◆第一段(世間と社会の違い)  世間という言葉は誰もが使っているが、何かをきちんと答えられる人はいない。社会とは違う。世間は明治以降文章から消えたが会話の中ではしばしば使われ具体的である。他方、社会は明治以降文章では使われるが抽象的である。  西欧では、社会は尊厳を持った個人が集まったものと見なされている。日本では個人の尊厳は認められず、世間は個人の意思によって作られたものでなく所与と見なされる。  私たちは世間という枠組の中で生きているにもかかわらず、世間を分析した人はいない。 第二段(日本人は世間に依存している)  世間がなくなれば、日本人は世間を基準に生きていて、世間も個人の位置に気を配ってきたので、行動の指針を失って困惑するだろう。世間の中では長幼の序が支配していて競争が排除されているので、有能でない人も世間の掟を守っていれば排除されないが、有能な人がそれなりの地位を得るわけではない。  私たちが人間関係を選べても、相手がどのような世間に属しているか(出身校・出身地・会社・地位)を問題にして、気心の知れない人とは付き合わない。  日本人は、競争社会で個性がせめぎ合う関係の中で生きるより、与えられた位置を保ち心安らかに生きたいと思いながらも、周囲を気にする。  日本人は、自分以外の権威としての世間に依存して生きている。皆と共に行動する時は皆と合わせようとするし、意見を聞かれた時は他人の意見を聞きながら自分の意見をそれに合わせたりする。 第三段(贈与と互酬)  世間を構成する原理として贈与と互酬がある。互酬の具体例として、借金を返せないと世間から排除されるのではないかという恐怖や贈答儀礼がある。  逆に、宝くじが当たったりした時に名前を公表しないのも、世間の中で世間の評価を気にすることから起こる事態である。  世間の中での個人の位置は、十分な形で個性を伸ばすことができなかった。 第四段(「坊ちゃん」の中の世間)  「坊ちゃん」は西欧の個人の位置を見た漱石が日本の個人の問題を学校という世間の中で描こうとした作品である。学校という世間のしきたりに従えという赤シャツの忠告に対して、世間は人が悪くなることを奨励し、正直手純粋な人を軽蔑すると反論する。  読者は坊ちゃんに肩入れするが、自分が赤シャツのように世間の中で生きていることを感じている。 第五段(世間を分析する必要性)  世間を分析した人がいないことは、わが国の学問が日常会話の言葉を無視してきた結果である。  「非言語系の知」の集積である世間を顕在化し対象化すれば、世間の持つ負の側面と正の側面が見えて来、新しい社会関係を生み出す可能性がある。  明治の中頃に社会や個人という訳語が通用する以前は、社会や個人という言葉も概念もなかったが、世間という言葉が社会に近い意味で用いられていた。  社会という言葉が通用するようになってから、社会という言葉が持っていた概念とわが国の実状の乖離が無視されてきた。  わが国で欧米の意味での個人が生まれていないのに社会はという言葉が通用するようになって、欧米流の社会があるかのような幻想が生まれ、わが国の社会の未成熟や特異性が隠されるという事態になった。しかし、一般の人は日常会話の中で社会より世間という言葉を使い続けた。 第六段(世間の曖昧さ)  日本の個人は、世間との関係の中で形成される。しかし、世間は人間関係の世界なので曖昧なものであり、したがって、その曖昧な世間との間で形成される日本の個人は曖昧なものである。人権が守られないのも世間の枠の中で許容されてきたからである。

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