山本玄峰老師 OD版 無門関提唱---ガラーッと悟って見よ [4804618982] :
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山本玄峰老師 OD版 無門関提唱---ガラーッと悟って見よ

6,480円

山本玄峰著◆『田中清玄自伝』が実に面白くて読んでいると、 この本の中に「山本玄峰」という人物が頻繁に出てきます。 田中清玄の師匠だ。 当時の政財界のトップがこの老師のところに集まっていたそうなのです。 特に敗戦時の任を一手に任された鈴木貫太郎総理の 相談役でもあったようです。その人物としての器の大きさが 『田中清玄自伝』の中に度々紹介されているので、 とても気になって山本玄峰氏の本を取り寄せて読んでみると、 こりゃまたビックリ! 読んでいると、肚の底から大喝を注入されたような壮快な心持に なってしまうのです。読んでいると玄峰老師からの言葉によって、、 着々と自分の中の生命エネルギーがふつふつと高まっていくのが実感できます。 そんなことを味わっていたら、ドクスメスタッフ小川選手から こんな話が飛び込んできました。 『白駒妃登美さんが、「10年に1度の1冊!」 『少年日本史』と共に、「前書きで号泣した本!」 として、今一番おすすめのとっておきの1冊がこちら↓ ◆『人生を照らす禅の言葉』 白駒妃登美さんの本をお読みの方はもちろんですが、 禅に興味のあるタテ糸読書をされている方も注目の1冊です。』 白駒妃登美さんがそこまで絶賛ということであるのならと 思ってさっそく読んでみると・・・・・こりゃまたビックリ仰天!!! 『人生を照らす禅の言葉』 この本の前書きに下記のようなことが書かれていたのです。 「小学校に入って、親しい友人の死に遭い、ますます死に対する恐れ、 不安、疑念が湧いてきました。子供なりにさまざまな書物を読んだり、 お寺や教会に通ったりもしました。そうした中で、円覚寺の 朝比奈宗源老師の著書にいちばん心惹かれ、坐禅がいちばん 問題を解決する道だと思うようになりました。 さいわいにも菩提寺の清閑院で坐禅会が催されており、 夏の坐禅会に参加し、そこで由良の興国寺の目黒絶海老師に お目にかかることができました。中学生の頃には早くも独参を 許されて公案もいただきました。そんな頃にお寺の坐禅会で、 山本玄峰老師のお話をカセットテープで拝聴させていただきました。 晩年に「無門関」を提唱されたものでした。」 とつぜん私の目の前にまたまた山本玄峰老師の名前が。 山本玄峰氏の言葉で生命エネルギー満タンのその時にです。 さらにこう書かれておりました。 「玄峰老師は、我が故郷の誇る偉人でありまして、その数奇なご生涯は 子供の頃からよく聞かされていました。老師は江戸時代の終わる頃に 紀州本宮町湯の峰にてお生まれになりました。 言い伝えでは、生後すぐに、地元の素封家にもらわれ養子となって 育ったそうです。動乱の時代でもあり、あまり学校には行かれずに、 山で木を伐ったり、筏流しをやられていたようです。 ところが、十九歳の頃に目を患い失明の宣告を受けます。 まだ社会福祉も十分でない時代に目を患うことは大変なことです。 もう死を覚悟して四国遍路をなさいました。当時のことですから、 もちろん歩いて、しかも素足で七回りされて、八回り目の三十三番札所で 行き倒れてしまいました。その札所が臨済宗の雪蹊寺というお寺で、 そこに逗留するうちに出家の志が芽生え、住職に出家を願い出ました。 「お坊さんになりとうございます」というと、住職は 「おまえはそうなる人間だ」と答えます。 「私のような字も読めない、目も見えない者でもお坊さんになれましょうか」と聞くと 「お経を読むだけの通り一辺のお坊さんにはなれぬかもしれないが、心の目を開きさえすれば本当のお坊さんになれる」と答えられたそうです。」 「刻苦光明必ず盛大なり」 という言葉が禅語としてありますが、まさに身をもって この言葉が確かなものであることを我々の目の前に 示されてくださっているのです。 私が読んいた玄峰老師のその本は、 『人生を照らす禅の言葉』の著者である横田南嶺老師が、その著書の中で 「山本玄峰老師のお話をカセットテープで拝聴させていただきました。」 と、おしゃっていた、まさにそのカセットテープの話の内容をそのまま本にしていた ものだったのです!!! もうここまで揃ったらこれは偶然とは言えませんね。それと、 高校生の頃、吉田晋彩先生に読むようにつよくすすめていただいた本が、 朝比奈宗源老師の著書でした。 その山本玄峰老師の貴重な本がこちらです。 この本は、玄峰老師の最後の講話となっています。 カセットテープが元ですから、口語体ですし、目の前で自分自身が 講話を聴いているような錯覚をもつような感じになるので、 読んでいて気合いという「喝!」が入るのでしょう。 一部本文からご紹介いたしましょう。 「わしはカメラを持っておるが、あの写真のレンズはいつも清くなっておる。 それだから何でもうつりそこなうということはない。 白隠和尚は「物を疑わにゃいかん」という。どんなことでも、 馬が屁をひって通ってもああ馬の屁かというようではいかん。 無我になっておりさえすれば、何もかもがわかってくる。 私根性をいつも持っておると何もかもわからんようになる。 明鏡体でおるからパッと即座に人を見ても分かるのじゃ。 蛇は一寸いずればその大小を知る、人一言いずるもその善悪を知るで、 腹の中がじきわかるものじゃ。そうでないとほんとうに仕事もできるものじゃない。 ウンそうか、ああなるほど、一々人に聞かないでも、明鏡体になって おりさえすれば、人の腹の中までわかる。 根性の腐ったやつは腐ったようにパツパツとうつってくる。 サラッとした人間ならばサラッとしたようにうつってくる。 なんぞ思惑があるなら思惑があるようにパッとうつってくるのじゃ。 それじゃから仏さまはみな摩醯首羅(マケイシュラ)の一目というて 観音さまでも阿弥陀さまでもこの真中に摩醯首羅の一目を現しておるのじゃ。 こいつは右にもつかねば左にもつかん。心眼を現しておる。 みんなこの修行をするのは何のためじゃ。道理に明らかになって 間違いのないように一生を送って、そうして自分の分をよく知って 何事もスッパリと解決をしていけるようにするのじゃ。 坐禅して悟ったって、ただほかに楽しみはない。 一切の理に明らかになるための修行じゃ。 それじゃから「理に明らかならざれば世に於て何の益か有らん」と、 六祖大師もいうておる。もし間断なく修行をやったならば 「法燭(ほうしょく)の一点」というて、この自然の太陽とともに光って いくところのあかりとなる。明るいきれいな透き通った世界、 それを法燭というが、この身も、法のあかりの一点となる。 中略 どんな理屈をいうたところで、人間勝手にこしらえた理屈じゃ。 そこへいくと自然の大道は太陽と一緒じゃ。太陽に勝つ光は どんなことがあってもわしらの世界ではありません。 どんなあかりをつけてみたところで太陽に勝つ光はでてこん。 だからどんなに智慧があってみても、それだけでは役に立たん。 人間は一個の小天地じゃ、天地とわれと同根、 万物とわれと同一体のその光はどんなものであるか。 ガラーッと悟って見よ。」 いかがでしょう。気合いが入りますよね。 我々はしっかりと本物の仕事をして人の役に立て!という 大喝ではないでしょうか。本気で仕事をしなきゃこの世に生まれた価値がない。 そう山本玄峰老師は、田中清玄氏だけではなく、こうして本を通じて お伝えくださっているのでしょう。 ついつい仕事についてのノウハウを求めたくなる私たちですが、 「どんなに智慧があってみても、それだけでは役に立たん。 人間は一個の小天地じゃ、天地とわれと同根、 万物とわれと同一体のその光はどんなものであるか。 ガラーッと悟って見よ。」と叱られそうです。(笑)

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